しあわせこころのつくり方

心と魂の癒しのために

光の私 私の中の光へ

光溢れる私、美しき光を放つ魂の私が、

今の人間となっている私に語る言葉を、

感じ取ってみましょう。

 

私という文字の中

仏という字が隠れているように

私の心の中にも仏の心が宿っています。

 

 

仏の心(仏心・ぶっしん)とは、大慈悲のことで、一切衆生に本来備わっている仏性のことです。

 

では、大慈悲(大慈大悲)とは一体どのようなことを指すのでしょう。

大慈悲とは、広大無辺な仏の慈悲のことをいいます。

大慈」とは、仏が衆生に(この世の中に生きるもの全てのこと、あまねく存在)楽を与えることをいい、

「大悲」は衆生の苦しみを救うということを表しているといわれます。

 

具体的には、生きとし生けるすべての「苦」を取り除き、「楽」を与えるということになりますが、

大きな意味で言うと「仏の限りなく大きな慈しみ」ということになります。

 

 

ちなみに、楽とは、安楽、幸福というものであり、生きていることの喜びとも言い換えられるものです。

ラクしようぜ!というように使われる怠けた心や事柄のことではありません。

 

①外楽(げらく)・・・欲望が満足する楽 ②内楽(ないらく)・・・欲望から離れて心が静まる楽

③法楽楽(ほうがくらく)・・・仏の智慧と出会い、自己の持つ執着から離れ、十方衆生とともに共有する楽

 

仏教での楽とは、③のことを指しています。

 

 

…と、ちょっと難しい方へ寄り道してしまったので、話を戻しますと…

 

誰の中にも、仏の心は宿っていて、その心は、御魂の光を大きく育て輝かせるエネルギーともなっていくのです。

 

ここで大切なことは、自分自身の光を信じること。そして、強く眩く光があればこそ、その光を他のために、外の世界のために使ってゆくことです。

自分の名誉や名声、権威のために使うものではなく、また、その力が凄いものと他者に自慢すること、見せびらかすものでもないということです。

 

高次元の神仏は、驕り高ぶりを善しとなさいません。

常に謙虚にある姿勢にこそ、光が宿るとお伝えくださいます。

 

 

尊く美しいその光に触れると、それだけで、心身の棘が抜け、歓びに満ちた心持ちになれるものです。

 

そんな光の一部を、誰もが宿しているとするならば、その光を真の己として使いこなしてまいりたいものです。

 

 

光溢れる私、美しき光を放つ魂の私が、

私自身に語る言葉、光そのものを、

感じ取ってみてください。

美しき光、その御魂を乗せている私自身を、よりよく使いこなして、生きていきましょう。

 

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