宿業 : 前世につくった業(ごう)。
現世に応報を招く原因となった前世の善悪の行為。
辞書などで調べると、上記のような意味が書かれています。
輪廻転生を説いている仏教用語ですので、その教えの下にない方には、なにそれ?と思われることかもしれません。
「袖擦りあうも多生の縁」という言もあるように、仏教思想では、私たち人間は、何度も何度もこの世に生まれては死ぬを繰り返しているとされています。
「前世のことを知りたい」と、ご相談にいらっしゃる方はとても多いのですが、前世のことを知った上で、今生でどうしたいのか…までを考えていらっしゃる方は、数少ないです。
では、そもそも、前世とは、一体いつのことを指しているのでしょう?
今を生きる前の人生のこと?
それともその前?
以前の記事に書いたように記憶していますが、本来、前世といわれるものは、
今の地球に生まれる前の世のことだと、私は捉えております。
人間として存在していた前の人生ではなく、魂としてのみ存在していた生のことです。
少し話が離れますが、今朝、久しぶりに、弘法大師さまからのお言葉を賜りました。一部を抜粋してここに記しておきます。
『そもそも、人としてこの地球という星に生まれついたということは、それぞれ個々の魂に、己の星にいては知り得ぬことを知りたいという意識があるのです。
ここでしか学べないこと、知り得ることのできないことがあるから、こちらに参ります。
ある生で、人間として生まれ育った自分の中に生まれる憎しみや恨みなどの負の感情を体験し、その感情を手放して赦すという『愛の行』を学ぶことを選択されたとしたとしましょう。
その生を終えるまでに、憎しみや恨みを手放し赦すことができれば、その人生での課題は成就されます。
それができなかった場合、もう一度、その行に挑戦されることをなさることがございます。
また次の機会に、人として生まれることが許された時、前回の人間として生まれた時に成し得なかった学びを命題として、自らに課すことをなさった方は、
前世(ここでの前世は、人間として地球に生まれた時の前の世のこと)からの課題を引き続き行うために、宿業を背負うことをなさるわけです。
ここ、よろしいですか?自らが宿業を背負うことをされるのであって、誰かに無理矢理、課されるわけではありません。
自らの魂が知りたい、学びたいからこその宿業、カルマというものなのですよ。
善悪という二元論は、地球上の人間が生み出す感性、理論であって、人を離れた後の世界には二元論という思考はありません。
陰陽、表裏、善悪、すべてこの世界にのみ存在し得るものであり、この次元を超えると、その感覚は変わります。
私のいうところの課題というものは、自身の中に生まれる感情、感性、感覚、精神が生み出すもののことであって、外界に生まれる問題とは違います。
外界(自分自身の心の外のこと、)に発生した問題そのものは課題ではありません。
自分自身の心が生み出す問題、心の癖や傾きなどにより生み出される物事を、真の目をもって捉え直し、二項対立にならぬ平和的視点をもちて、中道、調和的な道を歩めるように、自らを修正していくことが魂の学び修める行となるのです。
その修正の仕方、学び方は決まってはいません。それぞれの方が、それぞれのやり方、学び方でなさればよい。
ただ、一人でその学びを修めようとされても、人間ですから、自我の芽が出てまいります。そうすると、忽ちに、謙虚さをなくし、感謝を忘れ、わかった気になって、自分の正しさにこだわってしまうようになるものです。
道を外すのは簡単です。道を外れて歩いていくうちに、道に迷い、自らの魂を貶めてしまうことになって参るのです。
やがて、自らの生が終わりを迎える頃になり、ようやく、気付きが訪れる…訪れるなら、まだよし。気付かぬままに、この世を去ると、また同じ宿業を続けて、学ぼうとされるのが、人間として生まれてきた魂というものだと、知っていていただけるとよいのではないでしょうか。
宿業を背負わずに、新しい行を自らに課される方もおいでですが、そのような方は、そもそもにして、高貴なる魂、次元の高く、すでに、たくさんの行を修められ、役付きの魂であられるでしょう。』
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さて、前回の記事で、次回に書く…と申しておりました、春蕾光明神のお話されたこの世に残した思念と魂の思いについてですが、どこまで記してもよいものか、まだ、ご本神よりのご許可が降りてこないので、しばしお待ちいただけたらと思います。