しあわせこころのつくり方

心と魂の癒しのために

正義感…

「正義」この言葉を目にした時、

みなさんはどのような印象を持つでしょう?

 

 

最初に浮かぶのは、正義のヒーローかしら…

自分が子どもの頃にも、

息子や甥、姪が子どもの頃にも、私は

かなりハマってみていました。

 

ウルトラマンや仮面ライダー、

戦隊モノの◯◯レンジャー、

女の子向けのアニメでは、セーラームーンやプリキュアなど、正義のヒーローvs怪獣、悪の組織

みたいな構図で描かれている勧善懲悪のわかりやすい作品は、子ども心に火を点けます。

悪者を退治するヒーローを演じる自分に酔う姿は、親世代から見ると、可愛いくて、微笑ましいものです。

 

子ども達は、そこに、正義をみるのでしょう。

悪いことをするヤツは成敗されてよい単純な世界です。

 

さて、では、この子ども心の正義感は、

いつまで有効になるものでしょう。

 

 

 

戦国時代の日本でも、世界大戦でも、

今、まさに起きているロシアvsウクライナの戦争も、戦いを始めるには、必ず、大義名分があります。ロシアにはロシア(プーチン大統領)の正義があり、戦いを始めたのです。

それに対して、ウクライナも、国と誇りを護るために戦うことを決めました。

それもまた、ウクライナ側の正義です。

 

強い正義感を振りかざすことで、失われる命があったとしても、それは、誇り高き犠牲者として扱われるのです。

それが本当に正しい正義なのか…

私には疑問しか生まれません。

 

 

 

たとえ、どんなに素晴らしい教えがあったとして、そこに正義感を振りかざした途端、その教えは、神理(法、光)から遠く離れたものになります。

 

やらねばならない

やるべき

このようなべき論は、相手を糾弾し、相手の価値観を全否定することにも繋がりかねません。

 

私の身近には、かなり長い年月を、共に学び続けている方がいらっしゃいます。

とても真面目で、人の弱さに寄り添うことのできる優しい方です。

素敵なところがたくさんありますが、本人は、それを認められず、事あるごとに、他者と自分を比較し、自分を責める方へ向けてしまいました。

 

自分を責める気持ちがある…ということは、

反転すれば、他者をも責める気持ちがあるということです。

 

彼女は、真面目すぎるが故に、学びをしっかりと身につけようとし、他の人にもそのようにするよう求めていました。自分では気付かぬうちに、他者に自分の正義を振りかざしていたのです。

 

真面目な人ほど、正しさを追い求めてしまうのでしょう。

次第に、自分の考えが正しいか、正しくないかを、常に見つめることに意識が向きすぎて、

外の世界のことに目がいかなくなっていったのです。

 

講座中や、お稽古中では、

みんなを元気にしたい。

癒しの場を作りたい。と、おっしゃるのですが、

いざ、現実に戻ると、行動をとりません。

なぜかというと、自分の考えが正しいか正しくないか、ひたすらジャッジばかりしていて時間が過ぎていくからです。

そして、何もできない自分を責め、落ちていく…この状況を一体、何年続けてきたことでしょう…

 

 

その結果、ある時期の彼女に、敵意と憎しみが湧いてきてしまいました。

「みんな死んじゃえばいい」そう思い言葉にしてしまった…そんな自分が怖い、自分が赦せない…私なんか死んじゃえばいい…と思ってしまったと、私に話してくれました。

 

「そのみんな死んじゃえばいいの中の一番は私だよね?なんでそれを私に伝えるの?」とは思いましたが、壊れていく彼女を放っておくわけにはいきません。

 

とはいえ、共依存の関係になりたくないので、

自由に生きた方がよいこと、

他の関わりの中で学ぶこと、

私としっかりと距離をとることなどもお伝えしました。

けれど、それらを伝えると、さらに落ち込みが激しくなり、

付かず離れずの距離感で、彼女の回復のお手伝いをしてきた10年でした。

 

 

元気になったと思いきや、また落ちる。

繰り返し繰り返し…

彼女の中にあるモノ、それは、正しさ(正義感)への依存なのです。

祈ることは正義である…という正義感。

けれど、それが貫けない弱い自分への嫌悪が、

彼女を苦しめていました。

 

 

つい先日、改めて、「自分を責めては落ちるを繰り返すならば、もう、貴方に教えることはできないから、他に学びにいきなさい」…と、お伝えしたのですが、その最後通告の後にさえ、彼女は、また同じ轍を踏みました。

心の病といってしまえばそれまでのことですが、

それでは、彼女が望んで学びたいと続けてきた意味がなくなってしまいます。

 

そこで、もう一度、彼女に問いました。

『何を大切にしたいのか』…を。

 

 

 

私は、一度たりとも、私の伝えていることが、

すべて正しいなどと伝えたことはありません。

私は、私の知っていることをのみお伝えしますね…というだけの話をしています。

 

ご自身の中にある魂の光。

魂として存在する己の願い。

魂が肉体という器をお借りして、

人間として生まれ生きてきた意味。

 

そこにあるのは、正しさや正義ではなく、

光の存在の願いであり、祈りである

それだけのことなのです。

 

 

 

御神託を受け取るようになって31年。

また、カウンセラーになって30年。

プロのカウンセラーになる以前から考えたら、

50年過ぎるくらいに、人の心が作り出す人生の成り立ちを見つめてきた私が辿り着いたのは、

真面目な人ほど、正義感が強く、

人生を辛いものにしているという事実です。

 

 

そして、その正義感が他者に向けて発動された時、対象者の心が壊れ、関係も壊してしまうことがあるのです。

 

 

自分自身の正義を、他者に当てはめようとしないことの大切さを思います。

 

特に、上司や親となる立場の人は、目下の存在に対して、正義感を振りかざしがちです。

 

正義を伝えるのであれば、主観的な正義でなく、

俯瞰した視点からの正義を伝えることです。

でも、それはさらに難しいことなのかもしれませんね。

であれば、自分の正しさを主張するのでなく、

「私はこう思う」という、I message として伝える必要のあることを、覚えていてください。

 

 

美しい心を持っている人でさえ、

正義感を振りかざした瞬間、

鬼のような形相になるものです。

 

その正義感が本物であるならば、

なおさらに、怒りや恐れからの言葉でなく、

慈しみの言葉を使ってみてくださいね。

 

 

追記

私も、昔は、自身の中の正義がありました。

ある時、
「和を以て貴しと為す」の教えは、
『和らぎを以て貴しと為す』ということであり、調和とは、和らぎの心にて調えることであるよ』と、日美の神からの教えがありました。

その時、自分自身の中の要らぬ力を手放すことこそが、自らの光をそのままに露すこととなることに気付き、自らの中の正義すらも偏りであることに気付きました。

 

誰もが、自分自身の正しさを持っています。

それが悪いわけではありません。

 

その正しさ(正義)を振りかざした時、

正しさは正しくなくなってしまうということなのでしょう。

 

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