一般的に、ご神事とは、お神社にてお祀りされている神々へのご奉仕を指しているものであり、辞書などには、
① 神祇の祭祀に関して行なわれるすべての儀礼。 神社において行なわれる祭儀。 ② 神社の祭礼に演じられる能。
と記されています。
私が為している神事は、神仕え事とも言うものですが、神さま方へ捧げる祭事ではなく、神々の為されるミッションの一端を務めることであり、神々の仕事を共に担う者という役割になります。
ですので、神事を務めることは、神々のお役に立つというものではなく、神々と共にチームとして働く仲間になることなのです。
神の本体は光です。
光は愛であり、慈しみであり、赦しです。
その光の主達と、共にチームを組むということは、神々と同じく光の己として存在し得るよう努めていかねばなりません。
光の己で自らを律し、赦し続ける力を育み、持ち続けていくのです。
平和を祈り
調和へ導くために努め
赦しの心を育み
愛を捧げ
慈悲の心にて痛みを分かち合い
互いに尊び合い
礼節をわきまえて
感謝の喜びとともに在る自分に
なっていくこと
それを自らに課して
なおさらに
しなやかに枠を超えていくこと…
なかなか難しい課題ではありますが、神々とともに在り、事を運ぶということは、そういうことです。
では、神々(私の知るところの神代の世界の神仏、聖賢者等)の望む「調和された平和」とは、一体どういう世界のことを指すのでしょう。
神々『光の存在』が目指しているものは、すべての存在が赦されてあることを知り、闇すらも美しく調った光の一部であることを知り、すべてあまねく存在が安らかにあれる和らぎに満ちた平らかな世界『平和』です。
価値観の違う者同士が集まる中に於いては、各々が自我(エゴ)ばかりを貫くこうとすれば、そこには間違いなく、対立や争いが生まれてしまいます。
また、自我(エゴ)が強い人と、そうでない人がいる場合、自我を貫く人の意見に偏り、いずれは、そこに痛みが生まれ問題が発生し、対立の構図が生まれてしまうことでしょう。
そこに存在する誰もがエゴを捨て、互いへの思いやりと慈しみの心を持って、自他を分たずに、自分も他者も大切に扱うことが必要なのです。(違いを超えた調和の世界)
互いの違いを理解した上でなければ、
真の平和は訪れません。
平和とは、誰もが安らかな心で、互いを侵し合うことなく、それぞれの価値観を認め合った上で成り立つものです。
それぞれの価値観を認め合い、そこに安らぎの境地を生み出すことこそが、平和への道のりでしょう。
平和へ至るためには、まず、自らの心の有り様を調えることが、第一に必要なことです。
この世の中は、右と左、黒と白、善と悪、光と山、二元的中ものの見方をし、答えを導き出してしまうことが多いですが、それでは、問題の本質は解決しません。真の平和への道を作り出すことは、難しいのです。
本来的な平和を作り出すためには、互いを認め合い、赦し合うことからしか始めるしかないのです。
そのために、人であるわたし達が、この人間世界でできること、心がけていくことを書いておきますね。
①価値観の違う者同士が理解を深めるための対話を続けていくこと。
②相手の意見を遮ることなく、しっかりと聞いた上で、自分の意見を伝えること。
③自分の意見を伝える時には、相手への配慮を忘れずに、相手が理解できるような言葉を選び、穏やかなトーンの声で、相手に伝わるように話すこと。
簡単なことでしょう?
でも、それができないんですよね。。。
特に、身近な人に対して…
簡単ではないだけに、対話のワークなるものが出回っているのです。
私が理事を務める社団法人でも、このようなワークを行ってきましたが、
実践できるようになるには、何度も繰り返しレッスンし、自分のものにしていく必要があるのですよね…
完璧な人はいませんし、完璧にできるわけもありません。
当然、私も完璧な人ではありません。
それでも神仕え事を為せているのはなぜ?…
そう思われた方は、もう一度、記事を読んでみてください。
光の存在(神仏)は、常に赦し続けておられ、完璧を求めてはいらっしゃらないからなのですよ。
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ではまた。
次は、春蕾光明神からのメッセージを載せたいと思います。