「神さまと仏さまの役割」というテーマで、
本日、日本の神代と古代史研究会のオンライン講座でお話をいたしました。
その時に、お伝えしたお話の一部を、こちらのブログに載せさせていただきます。
有料の講座なので、参加者の方に失礼となりますので、
すべてはアップできませんが、ご参考までに・・・
簡単に仏教伝来のおさらいをいたしましょう。538年、(日本書紀によると552年。 元興寺縁起などでは538年といわれています。)百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりといわれています。
聖徳太子の時代(7 世紀初め600年頃)に、日本で初めての仏教文化が生まれました。ghttps://www.shitennoji.or.jp/shotokutaishi.html(四天王寺サイト)
聖徳太子のお生まれになった時代は、神道やアミニズムという自然崇拝という考え方が主流でした。
当時は、現在よりも遥かに自然は抗えないものでしたので、四季の恵みも台風や地震、病の流行もすべては神の采配とされていたので、神々は、恐れ敬うものとして、お祀りしなければならないものでした。
市井の人々の暮らしや営みは、神様の機嫌を損なうと、壊れてしまう危うさの中に存在していたといえるかもしれません。
当時は天然痘が流行し、多くの人の命が奪われ、川原は屍で埋め尽くされていたといわれます。病や死への恐怖から、人心は荒れ、盗みや人殺しなどが横行する中、聖徳太子は、政に、仏教の教えを取り入れ、社会を調えていくことをされたのです。
『神は自然の恵みを与えもするが、奪いもする恐れ敬う存在、ゆえに、敬謙にお祀りせねばならぬもの。仏は人々の心を救い、死んだあとの魂を救う存在』として、神道と仏教の二大宗教を国の教えとして両立させました。
それが、今の日本に於いて、神社とお寺とが両方残っている由縁です。
ちなみに、神社は柏手を打って、神様にお詣りをします。二礼二拍手一礼という作法があります。ちなみに、出雲大社は二礼四拍手一礼となります。お寺さんでは、柏手は打たず、胸の前に手を合わせて合掌をします。(このあたりの意味は、またの機会にお話しすることにいたしますね)
さて、それではそろそろ本題に入ります。
日本のお神社にお祀りされているのは、神様です。
天津神、国津神などといわれる神様の系譜がありますが、細かいところは、とりあえずスルーして、神様といわれる存在が祀られているところがお神社です。
日本のほとんどのお神社には鳥居がありますね。基本的に、鳥居は東を向いて建っています。朝日が鳥居をくぐり、入ってくるように設計されているのです。
日本に於いて「神様」と呼ばれている存在は、実は、地球という星に近い場に存在されているエネルギー体で、地球を司ったり、守ったりする役割を担っている方々です。
もともとは、地球という星そのものを司っているものであり、人間を護るという存在ではありませんでした。
この地球という星に生命が生まれると、神々はこの地球に様々なエネルギーを送り、
その生命を育むための力を与えました。
長い年月をかけ、今の人間に近しい生物が生まれるようになっていく中で、地球を司る神々の中から、人間に介入する神が生まれ、エネルギーとして人間に影響を与え続けていく存在、器となれる人間に降りて人間と交流する存在、エネルギーを実体化させて人間の営みの中に入り込み、人間と交流する存在などが派生していきました。
天津神、国津神といわれる存在は、当初はエネルギーを実体化して地球に降り立った神々です。現在は、実体化されてこの星に降りていらっしゃることはありません。
この地上に神代があった時代には、神と人間の交流は自然なものだったそうです。
神と人間との間に子どもが生まれるというようなお話があるかと思いますが、
事実、エネルギーを実体化させ「ひとがた」として存在されている神が、人間の女性と交わり子を成すことは普通にあったそうです。
はじめは、人間の波動は神に近しく、光に満ちていましたが、欲が生まれ始めると、
たちまちに光は小さくなっていきました。
当初、地上に降り立った神々は、地球と自分の星とを行ったり来たりされていたのですが、この世界の人間に近くなり過ぎたことで、高次の波動を保つことが難しくなり、
地上に残る神々が生まれていったといわれております。また、人間の愚かさに嫌気がさして、地上から離れていった高次の神々もいらっしゃいます。
人々の欲が蔓延していくと、地上に神代が築かれていた時代は終わり、神は天に上られました。
高次の波動を保つことができなくなった神の中には、魑魅魍魎や妖怪といわれるような存在に変化したものもいらっしゃるそうです。
また、人間をはじめ様々な生命を守り育む存在として、高次の波動を残したまま地上に残った神々もいらっしゃいます。その神様方を此津神とおっしゃいます。
さて、ここまでは日本で神様といわれる存在の話になります。まだまだ話は続くのですが、長くなるので、とりあえず、ここまで。
さて、ここからは仏様のお話です。
仏様というと、ご自宅に仏壇がある方は、亡くなった人が仏様なんじゃないの?と思われるかもしれませんが、仏教でいうところの本当の仏とは、「悟りを拓いた者」「真理に目覚めた者」という意味です。
初期の仏教において「仏」とは、仏陀、お釈迦様のことを指していました。基本的には仏陀を仏としてその教えに耳を傾け、禅定などの修行を行って悟りを得て、解脱するということが目的になっており、この世の迷いや苦しみは、悦楽や苦行に偏らず、正しい実践によって抜け出すことができ、悩んでいる人を救済するというのが、根本的な教えになります。
もっとわかりやすく言うと、『すべての人が本当の幸せになる道』が説かれている教えとなります。
仏教には、大乗仏教と上座部仏教(小乗仏教)といわれる二大教義があります。
日本に伝わってきた仏教は大乗仏教で、自利利他の精神を旨とします。
自利利他とは、自らの悟りのために修行し努力することと、他の人の救済のために尽くすこと。この二つを共に行うことを言います。大乗仏教は衆生を救済する目的の仏教で、それに対して小乗仏教は、釈迦の教えを守る弟子たちのための教えだったとも言われています。
修行などを通じて、個人の救済を求める考え方である点が異なっています。
大乗仏教というものが誕生したところから、阿弥陀如来や大日如来、薬師如来、観音菩薩、地蔵菩薩…などの、如来様や菩薩様という存在が謳われるようになりました。
大乗仏教は菩薩が仏陀の境地に達してからも、何度でも一切の命のあるものを救おうと、この世に生れ落ちて救済するとされています。
…と、ここまでの説明が長くなってしまいましたが、ここからは私の知っている仏様といわれる方々についてのお話になります。
前回の講座やインスタライブでも触れていますし、ブログにも書いていることですが、
今お伝えした阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、観音菩薩、地蔵菩薩、等の如来や菩薩と名乗る方々は宇宙に目を向けてみると実在する存在となります。
名前こそ違いますが、そのように呼ばれている方々は、それぞれの場、星にいらっしゃる神、王といわれるような存在なのです。
この話の続きは、またの機会に。