仏教には、人は、この世に何度も生まれ変わるという輪廻転生の考えがあります。
その中には、動物が人間に生まれ変わることもあり、動物として徳を積み、善行を重ねた先に、
人間として生まれ変わることができるという説もあるそうです。(*私が神様方から伺った話では、人間に宿る魂は、動物には宿らないとのことでしたが、それは置いといて…)
人間になったその先には
「解脱」というものがあると、
仏教では説いています。
修行の場として存在しているこの世ゆえに、
何度も生まれ変わることをするという考えの下、輪廻転生説が生まれたのですね。
何度もの転生を繰り返し、これ以上、生まれ変わる必要はないというくらい魂を磨き上げ、高みに達したら、輪廻転生からの解放=解脱に至るとされています。
この状態に到達することを目指して、
人は何度も生まれ変わり、この世で修行を重ねるということなのですね。
仏教には、十二因縁という教えがあるのですが、
その教えは、輪廻転生のサイクルから抜け出すことができない原因を説いたものと言われています。
【十二因縁】
無明(むみょう)
行(ぎょう)
識(しき)
名色(みょうしき)
六処(ろくしょ)
触(そく)
受(じゅ)
愛(あい)
取(しゅ)
有(う)
生(しょう)
老死(ろうし)
「無明」を『因』として、
「行」という『果』をもたらすといわれます。
前者を『因』とし、後者が『果』となる形で展開していくのが十二因縁ということです。
「無明」とは物事の真理を知らないということを指します。
この世の一切は無常であり、自己という固定したものは存在しないということ。
物事は思い通りにはならないこと。
そのようなことを知らないことを「無明」といいます。
「行」とは、無明ゆえに、誤った行いを繰り返してしまうことです。
「識」とは、無明を根底とした認識のこと。
「名色」とは、精神と肉体のこと。
「六処」とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官です。
「触」とは、六つの感覚器官が、外の世界に触れることを指します。
外の世界に触れることで生じる心地よいとか、心地よくないという快・苦の感覚を「受」といいます。
心地よい経験には「渇愛」が生じ、
心地よくない経験には「嫌悪」が生じる。
これが「愛」になります。
高じると「それがないと生きていけない」とか、「そのことがどうしても許せない」と、囚われた状態になってしまいます。
それを「取」といいます。
囚われによって、人はこの世に完全に結びつけられた状態になってしまいます。
それを「有」といいます。
この世に結びつけられることで、
人は再びこの世に生を受けることになります。
それが「生」です。
やがては老い衰え、最後は全てを手放し、
再び死を迎えることになります。
それが「老死」
①の「無明」が執着(⑧愛・⑨取)を生み、
この執着が、輪廻転生からの『解脱』を妨げるということです。
そもそも、魂が誕生した場は、
それぞれの魂を生んでくれた神々の星・場になりますので、
解脱ということは、自分の誕生した魂の本来の星に還るということに、当てはまるのだと思います。
この世は仮の世界だといわれるのは、
そのような理由からでしょう。
人はいつか必ず死ぬのです。
どんなにお金を稼いでも、
大きな家に住んでも、死んでしまえば、
それは他の誰かのものになります。
あの世に持っていくことはできません。
何を手に入れても、最後には全てを手放していくのです。
シンプルに伝えるなら、
そこに執着があると、浮かばれない…ということですね。
重たいと浮くものの浮かないですものね。
重要なのはたった三つのことだと、
仏教を興した仏陀(釈迦)は、仰っているそうです。
『どれだけ愛したか』
『どれだけ優しく生きたか』
『どれだけ潔く自分に合わないものを手放したか』
今からでも遅くはありません。
いつからだってスタートです。
何度も繰り返していても大丈夫。
今生きている間に、
真実の私に向かっていきましょう。