大事な人に心の声を届けたい。
大切な話を聴いてもらいたい。
けれど、まっすぐに聞いてもらえなかったら、
どんな思いが浮かぶでしょう。
悲しみや寂しさ、痛いと感じることもあるはずです。
それが度重なれば諦めの心も生まれてしまうかもしれません。
では、自分自身の心の声はどうでしょうか?
自分自身に、正しく伝えられているでしょうか?
私自身は、正しく受けとめられているでしょうか?
痛みを与える対象が他者にある場合は、
心に傷を負うほどに痛みを感じるのに、
痛みを与える相手が自分である場合は、
痛みを感じにくいものです。
けれど、痛みを与える対象が、本人だったとしても、実は、心の奥では痛みを感じているので、
脳は強いストレスを感じ、体へも影響を与えてしまいます。
当然、心は疲弊して、気づかぬうちに、
心の病を患っていることさえ起こるのです。
心が傷つくのは、なにも他人からの投げ掛けだけではないということです。
自分が、自分自身の心を傷つける。
それはどれほどの罪になるでしょう…
自分を責め続けてしまう人のほとんどは、
メンタルトラブルを起こしていると言って過言ではないですし、人間関係にトラブルを起こしやすくなっているようにみえます。
心にトラブルを抱えやすい人の多くは、
言葉、表情、声など、与えられた情報を、
ネガティブな思考で受けとめ、自分なりのネガティブ解釈に変換して、記憶の中に刻んでいく傾向があるように思います。
記憶した痛みや悲しみ、強い怒りや憎しみを持ち続けることは、脳や肉体、精神に対しても、大きな負荷をかけ続けていることになるので、
まるで花粉症などのアレルギーが突如として起こるように、ある時、突発的にトラブルが発生し、どうにもならない辛さや苦しみの中にハマってしまう状況に陥るのです。
自分の人生に、自分自身が不幸を招いているかのようです。
この世界では、不意に事件や事故に巻き込まれてしまうことが、残念ながらありますので、
すべて、自分が不幸を招いているわけではないじゃないか!と思われるかもしれません。
それはたしかにその通り、事件や事故に巻き込まれたのは、その人のせいではないかもしれません。(事故や事件に遭った人の心の内や、その人の思考癖がどのようなものかはわかりませんので、自分で招いていないとは、言い切れないのですが)
さて、問題が起こるとしたら、その後の話です。
遺された家族や友人、恋人が、
ひたすらに相手を恨み憎み、
なんなら復讐にまで至ってしまうとか、
あるいは、私のせいでこんなことになってしまったのではないかと自分を責める…等々、
そのような二次被害が発生してからの方が事は複雑になっていきます。
悪しきカルマが生まれるとしたら、ここがスタートだと言ってもよいかもしれません。
出来事を通して、ネガティブな感情に浸り、
自己憐憫に浸ることや、復讐心に燃えること程、
もったいない時間はないだろうと、私は思います。
もちろん、それも学びであり、経験ですので、
決して無駄なことではありませんが、
ネガティブな意識の中に、自分自身を留めている時間は、魂の経験としては無駄でしかないでしょう。
気付きは、案外、一瞬で訪れるものです。
心を開いて、感謝の心で、
生きる命を育むすべての存在と一つになる感覚に至れば、自ずと、自分が抱えてきた問題は、
取るに足らない小さなことだったという気付きに至れるものです。
人間ですので、何度も同じようなところで躓いて、またやっちゃった…ということはあると思いますが、その度に、いちいち心の闇に堕ちていき、そこまで積み上げた学びを手放してしまうのは、もったいないですね。
被害者意識の強い人
自己憐憫の強い人は要注意です。
不幸になる呪いをかけ続けているのは、
自分自身であることを認めて、
これからは、幸せになるおまじないを、
自分自身に唱えて差し上げてください。