「みんな頑張って生きている」
私は、そう思っています。
人や動物を殺めるなどの、やってはならない悪意ある行為は認められないけれど、
誰もが、この世界の窮屈さに、辛くて苦しくて、 もがいて生きているのだと思うと、
すべての存在が救われてありますようにと、
祈る心が生まれます。
この世界は、人間関係で躓いてしまうことが多いですね。
けれど、嫌いなあの人も、理解できないあの人も、 みんな頑張って生きている。
それぞれの価値観や思いが、
ボタンの掛け違いのようになってしまって、
なかなか思うように戻せないことが起きてしまう現実世界だけれど、
それでも、みんな頑張って生きていて、
みんな幸せになりたいと願っている。
自分だけが幸せならばそれでいいと思う人は、
とても少ないと思います。
慈悲の心と俯瞰の力を持って見渡せば、
自分が痛むことばかりに意識を向けることでなく、
みんなが幸せになれるために祈る心を育てる方が、
自分自身も楽になるはずだと、私は思っています。
「◯◯さんが悪い」
「自分が悪い」
そうやって誰かのせいにしても、
誰も救われないからです。
自分の心も荒むばかりです。
だからこそ、
慈悲の心を育みましょう。
悲しみを抱くあなたの心にも、
必ず宿っている慈しみの心があります。
その光を、自分自身が信じられるかどうかです。
光ばかりを見続け、求めていても、
この世界は救われません。
この世界は、悲しみに溢れる世界だからです。
その悲しみを受けとめて、慈しみの心で包み込むこと…
そうすることで、いつの日か、世界の悲しみは癒やされ、闇が光に転じる日がくるのではないかと、私は思っています。
そこにある悲しみを受けとめない限り、
その悲しみは、そこに留まり続けてしまうでしょう。
だからこそ、仏は、慈悲を説くのです。
幽愁暗恨の世界にあっても、
大慈大悲の御心にて、
世界宇宙の隅々までをも救う。
それが、大宇宙に在りし高次の光・神仏の
大いなる意志でもあるからです。
私たちは、一介の凡夫かもしれません。
それでも、
光を求め、祈りを持つ心のあるならば、
美しき神仏の光の意志の片隅にて、
慈悲の心を持ち、赦しの心を育んでいけたらと願ってやまぬのです。
いつか、魂のふるさとへと、
笑って還っていけるように…
誰もが、一人残さず、光の道を辿れるように…
光へ